日曜日よりの使者

日曜日よりの使者

Date: 2008/01/07

仕事に行きたくない仕事に行きたくない仕事に行きたくない。

年末年始休暇が終わる日曜日の夜、僕は心の底から湧き上がる声に耳を傾けていた。社会的体裁や社会人としての信念、そんなもので蓋をしても決して誤魔化すことのできない本当の声に。心の叫びとでも言った方が適切だろうか。

「明日から仕事か……面倒くさいな」

お気に入りのダージリンティーを飲み、そっとロッキングチェアを傾ける。タバコの煙が所在無く舞い上がる部屋の中にはこれまたお気に入りのクラシックが流れていた。決して外すことのできない心安らぐ時間、せわしない世間にあって唯一落ち着ける時間。それでも心の中に鬱積した思いが晴れることはなかった。

「本当に仕事行きたくない……」

僕は数年前に本当に仕事に行きたくなくて瀬戸内海に浮かぶ島まで逃げたことを思い出した。まさかあんなに逃げるとは自分でも思わなかった。あの時は海が綺麗で砂浜が綺麗で、一人で2時間くらい砂の城を作っていたら島の駐在さんみたいなのがやってきたんだった。

憂鬱な月曜日と仕事始めが重なる1月7日、鬱陶しい要因がダブルパンチで攻め立ててくるこの日を前にして、僕はあまりの行きたくなさに身悶えていた。休みが終わるというのもその要因であるが、昨年末に仕事を放り出し、「良いお年をー!」などとランナウェイした事実を思い出すとますます仕事に行き気力が失せる。

ちなみに余談になるけど1月7日はウチの親父の誕生日だ。けれどもそんなことは別にどうでもいい。むしろ忘れたいくらいだ。僕が子供だった頃に純度100%のピュアさで「お父さんの誕生日を祝わないといけない!」とかわいさ満点のキッズとしか言いようのないキューティクルハートで手作りのお酒ホルダーみたいな紙製のチャチな物をプレゼントしたら、泥酔していた親父に「ワシの誕生日を祝おうとは10年早いわー!この小僧がー!」と完膚なきまでにズタボロにされて以来、彼の誕生日は寒い冬の中の一日と思うことにしている。祝うのに10年早いとかムチャクチャだ。余談過ぎて自分でもビックリした。

「ああ、どうしよう、本当に行きたくないよ」

中空に向かって独り言を発し、ロッキングチェアーを揺らす。するとどこからともなく声が聞こえた。

「そんなに行きたくないなら行かなくていいよ」

音というのは波だ。声が伝わってくる時は空気が振動して耳に届く。しかしその声はその種の振動とは違うような、まるで直接頭の中に響いているように感じた。

「だ、誰だ……!?」

キョロキョロと辺りを見回す。けれども、そこにはロココ調に揃えた家具類と優雅にクラシックを奏でるレコードしか存在しなかった。

「なんだ空耳か……」

あまりの行きたくなさに空耳まで聞こえるようになったか、こりゃあいよいよ末期だな。いい加減諦めてもう寝てしまおうか、そう思っているとまた頭の中にあの声が響いた。

「行きたくないなら行かなくていいのに、うふふふふ」

イタズラに笑う頭の中の声は途絶えることがなかった。僕は何度も「これは空耳だ、仕事を嫌がる僕が作り出した幻聴に違いない!」と言い聞かせ、眠る準備をし、仕事という憂鬱な明日への入り口となる寝床へと入った。その間にも相変わらず幻聴は聞こえていて、

「行きたくないなら左に行って!いつもは右のところを左に行って!」

と、相変わらずの調子で頭の中に鳴り響いている。とんでもない幻聴だ、これはもう仕事に行ってる場合じゃないかもしれない、でも行っちゃうんだろうなあ、と自分に言い聞かせ深い眠りに着いた。

翌朝。目が覚めるとやはり憂鬱だった。これが休みの日なら好きなだけ寝ていられる、寝すぎて疲れたなんて芸当もできるのだけど仕事が始まるとそうはいかない。あまりの憂鬱さに昨晩の幻聴のことなどすっかり忘れて出勤の準備を始めていた。

憂鬱なワインディングロード、職場へと続く道。せわしなく動く街の人々はそれが社会に属していて世間は動いていることを実感させてくれた。それと同時にやはり自分も社会に属して今から仕事なのだとひどく憂鬱な気分になった。

信号で停車する。ここを右に曲がればもう職場だ。時間もピッタリ、遅刻じゃない。そこで急に昨晩の幻聴のことを思い出した。

「行きたくないなら左に行って!いつもは右のところを左に行って!」

あの声はこの場所のことを指していたのかもしれない。いつも右に曲がって職場へと向かうこの交差点、仕事に行きたくないならここを左に曲がれと言うのだろうか。まさかそんなことはないだろう。左に曲がったって何かがあるはずがない、普通に街並みがあって遠回りすることになって仕事に遅刻する、それが関の山だ。

「けど……もしかしたら……」

なにかあるのかもしれない。そう思わなかったと言えば嘘になるだろう。それよりなにより、仕事に行きたくなかった。こんな職場の直前まで来て駄々っ子のようなのだけど、それでも行きたくない気持ち、何かを期待する気持ちがハンドルを左に切らせた。

いつも右に曲がる道を左に曲がる、ああ、ここはこんな景色だったのか、見慣れない景色がサイドミラーを流れていく。その景色がなんとも新鮮で、季節を感じさせる街路樹がどこか手招いているように見えた。

「でも、やっぱりなにもないな」

少しだけ何かを期待していた自分を恥ずかしく思いながら、バカやってる場合じゃない、仕事しなきゃ、と車をUターンさせようとしたその時、ざっと車の周りを深い霧が取り囲んだ。

「わ、わ、わ!」

あっという間に周囲が見えなくなり、何か別の場所に運ばれるような、言い換えると霧に掴まれて車ごと運ばれているような奇妙な感覚だった。どうすることもできずオロオロと霧を眺めていると、これまた奇妙なことにまるで意思を持ったかのようにサッと霧が晴れたのだ。

そして、目の前には大きな湖があり、どこか懐かしくなるような、それでいて本当に心安らぐような何ともいえない景色が広がっていた。朝もやに包まれた湖は穏やかで、波がたつわけでもなく、風で水面が揺れるわけでもなく、文字通り水を打ったかのように静まりかえった光景が広がっていた。

「おかしいな、ここにこんな湖はなかったはずだが……」

車を停め、湖のほとりに降り立つ。さすがに来たことない道とはいえ、いつもの交差点からそんなに移動したわけじゃない。いくらなんでも職場の近くにこんな大きな湖があるならば気付くはずだ。それにこの雰囲気、まるで時間がゆっくり流れているようにすら感じる弛緩した空気、全てがおかしくて奇妙なものだった。湖に近づき、しゃがみこんでそっと水面に手を入れる。冷たい感覚が右手を包むのと同時にサッと波紋が広がった。やはり本物の湖のようだ。なのにこの静けさはなんだ。

「いらっしゃい、やっと会えたね」

聞き覚えのある声が耳に届く。そうだ、昨晩聞こえたあの幻聴だ。昨晩聞いたあの声が今度は頭の中じゃなく本当に耳に届いた。

「だ、誰だ……!?」

辺りを見回すが誰もいない。ただ水面だけがこちらを見ていた。

「ここだよ、ここ、ここだってば」

それでもさらに近くなって問題の声が聞こえる。そう、まるで自分の右肩辺りから聞こえるような、いや、確かに右肩から聞こえていた、僕の右肩には見たこともない小さな人間が、ボンヤリとした光に包まれて微笑みながらこちらを覗きこんでいた。

「はじめまして、私は妖精のメルル、この癒しの湖の案内人よ」

「よ……妖精!?」

普通なら面食らって腰でも抜けてしまうところだろうが、確信的でないにしろ、そういった不思議な存在を許容してしまうような、許容せざるを得ないような圧倒的な違和感がこの湖にはあった。早い話が、何が起きてもおかしくないくらい奇妙な場所だったのだ。現に僕の右肩には手のひらほどのサイズの妖精が腰を据えている、みるとその小さな顔はアイドルのようにカワイイ、背中には蝶のような羽が生えている。メルルは少しかしこまりながら話し始めた。

「私は「働きたくない」「仕事嫌だ」「遊んで暮らしたい」そんな気持ちが産み出した精霊よ」

「ずいぶん堕落した気持ちが産み出した精霊だなあ」

普通、精霊と言えば山の精霊とか森の精霊とか、もっとこう神々しさすら感じる存在だと思うのだが、目の前には仕事したくない気持ちの精霊が。

「仕事をしたくないって気持ちは堕落じゃないわ。人間ならば誰しもが持ってるものなの」

「まあ、そりゃそうだけど」

妖精にそう言われると妙に納得というか安心してしまう。そりゃそうだ、誰だって心のどこかで仕事をしたくないと思っているに決まっている。

「その気持ちが限界になった時、人々はこの癒しの湖に導かれるわ。ここでは仕事しなくていい、時間も流れない、皆が好きなようにゆっくり流れる時間を楽しんでいるの」

「僕以外にも人がいるんだ」

「もちろん、大勢いるわ、ほら、見て見て」

その瞬間、周囲を包んでいた霧のようなモヤのようなものがサッと晴れ渡った。目を凝らして見てみると、湖周辺の岩の上で寝そべる人、湖畔に腰かけて釣竿を垂れる人、アベックで土を掘りながら愛を語らう人々など、数多くの人が好き好きに過していた。

「これ、みんな……」

「そう、仕事に疲れてこの湖に導かれて来た人々、あなたと同じようにね」

メルルは腰かけていた僕の肩から立ち上がると、背中のハネを優雅に動かしながら空を飛び、楽しそうに右へ左へと飛んでいた。

「とにかく、ここでは仕事なんてしなくていいわ、好きなだけいていいのよ。そして好きなように過していいの」

メルルの言葉を聞くか聞かないかのタイミングで一番近くにいたアベックに話しかけた。

「こんにちはー」

「あ、こんにちはー」

彼女の方は警戒しているのか、それとも彼氏の前で別な男と話をするつもりがないのか、僕の挨拶に対して微妙に視線を逸らした。答えたのは彼氏の方だった。

「お二人でこの湖にやってきたんですか?」

「ええ、実は彼女とあっちの世界ではこの彼女と結婚するつもりでしてね、家を建てるために二人で必死になって働いていたんですよ」

「へえ、そりゃおめでとうございます」

僕の祝福の言葉に彼氏は微妙にはにかんだ。

「ただ、お互い仕事ばかりになってすれ違いが多くなっちゃいましてね、喧嘩ばかりするようになったんです。で、二人のために仕事してるのに何なんだろう、もう仕事したくないや、って思い始めた時、二人してこの湖にいたんです」

彼女は面白くなかったのか、ツンっと指で彼氏に合図をし、目線で何かを訴えかけた。それを察したのか彼氏は申し訳なさそうに僕の方を見ると、

「じゃあ、僕らはこれで。ここは本当に楽園ですよ、ゆっくりしていってくださいね」

と言い残して二人で森の奥へと歩いていった。

「なあメルル、本当にココでは何もしなくていいのか?」

二人の後姿を眺めながら右側を飛んでいたメルルに訊ねる。

「そう、ここでは何もしなくていいわ、曜日もなければ昼も夜も来ない、ただ漠然とした時間が流れるだけなの」

「じゃあもしさ、ここである程度過した後、急に仕事をする気になったとしたらあっちの世界には帰れるの?」

「あっ、ほら、ここのリーダーよ」

メルルは急によそよそしくなり、まるで聞いてはいけないことを聞いてしまったような雰囲気だった。そして、大きな巨石の上に腰かけた中年の男を紹介される。

「お、新入りか。WaTのウェンツじゃないほうみたいな顔したヤツだな。ここでリーダーをさせてもらってる高本というもんだ。まあ、一番古株だからってのが理由なんだけどな。そして、ここでは仕事なんてしないからリーダーって言っても名前だけだけどな!ガハハハ」

「よろしくおねがいします。patoといいます。えっと、高本さんはどれくらいここにおられるんですか?」

「まあ、あっちの世界でいうところの12年はここにいるよ、ガハハハハ!これでも向こうの世界では証券マンでな、けっこうやり手だったんだぞ」

「はあ、そうなんですか」

あまりに豪放な高本の勢いに押される僕、いつの間にかメルルはクスクスと笑いながらどこかへと飛んでいった。完全に高本にマンツーマンでロックオンされた形だ。

「じゃあ、僕はこれで……」

「まあまて、仕事もないんだからゆっくり話を聞いていけよ、あれはバブル絶頂の時だったな、毎日が仕事漬けだった俺は証券マンとして……」

高本の話は終わらない。そのうち朝飯を食っていなかったためか空腹で我慢できなくなった。それにさっきから喉が渇いて仕方がない。

「すいません、お腹減ったんですけどご飯食べるところは……? それに喉も渇いて、できればコーラの自販機とかあると嬉しいんですけど」

高本の話を遮って質問する。高本は深く溜息をつくとニヤリと笑ってこちらを一瞥。そして隣の岩に座るように促した。

「まあ聞け。あのな、昔から言うだろ、働かざるもの食うべからずって。ここでは働かなくてもいい代わりに何もない。何もないんだ。なあに、望みさえしなければいいんだ、すぐに慣れるよ」

働かなくてもいい、その代わり何も望まない、そういうものなのだろうか。何か奇妙な違和感を感じると同時に、ここに来た時に感じた無気力な雰囲気、その正体が分かった気がした。そしてあの異常な静けさの意味も。

「でもそれって……」

僕が口を開きかけた瞬間だった。

カンカンカン

森の高台に据え付けられた鐘が鳴り響き、怒号が響き渡った。

「鬼だ! 鬼が来たぞー!」

それを聞いた高本はスッと立ち上がった。

「ちっ、鬼がきやがったか、おい、新入り、逃げるぞ」

高本は余程急いでいるのか僕の返事を待たずに森の奥へと消えていった。どうしていいのか分からず所在無くウロウロしているとメルルが大急ぎで飛んできた。

「大変大変! 鬼が来たわ! アナタも早く逃げて!」

「おいおい、鬼ってなんだよ」

「文字通り仕事の鬼よ! 私たちを捕まえて死ぬまで無理矢理働かせるの!」

「鬼とかメチャクチャだな!」

「私が「仕事をしたくない」という気持ちが生んだ精霊だって説明したでしょ、あの鬼は結婚7年目で子供も4歳になったんだけど家庭を顧みない夫に主婦として暇を持て余す妻、その妻が怒り爆発してリビングで夫に詰め寄るの「仕事と家庭どっちがたいせつなの?」「股その話かよ」「真面目に答えて」「はいはい、家庭です家庭」その様子を子供はハラハラしながら覗いてるわ。たまの休みも夫は接待ゴルフ、仕事仕事、もうついていけない、私離婚しようかと思うの、もうあの人とはやっていけない。結局ねー釣った魚に餌はあげないのよ、男ってヤツは。もちろん健二は私が育てるつもりよ、って高校時代の同級生に電話で相談する時の妻のような、そんな妻の夫を、いや、仕事を憎む怨念が産み出した悪霊なのよ!」

「ずいぶん限定的な怨念だな!」

「とにかく仕事の鬼よ! 捕まったら大変! 早く逃げて!」

ズシーン、ズシーン。重厚な足音が響き渡る。湖の中央を腰まで水に浸りながら真っ直ぐにこちらに向かってくる鬼の姿が見えた。山のように大きく、その表情は文字通り鬼の形相であることがここからも伺える。

「危険よ! 早く逃げて!」

「フハハハハハ! 聞こえるか、働かないゴミ蟲ども!」

「くっ! なんて禍々しきオーラだ」

「一人残らず強制労働送りにしてくれるわ! くらえ!」

鬼はこちらに向かって右手を大きく振りかぶった。

「有給休暇は与えるけどオフィスの雰囲気で死んでも取らせない衝撃波!」

ドゥーーーン!

「きゃあ!」

右前方で爆音が轟き大きなキノコ雲が見えた。その衝撃で森の木々が炎をあげてメキメキと倒れる。メルルが僕の周りを飛び回りながら逃げるように促す。

「早く逃げて、ここは長くは持たないわ!」

「いくぞ! ゴミ蟲ども!」

「終業時間になっても誰一人帰らない、っていうか帰る雰囲気すらないから当たり前のように残業豪衝波!」

ドゥーーーン!ドゥーーーン!

「くそっ! なんて悪辣な攻撃だ!」

大きく地面が抉れ木々を揺らす。崩れた岩たちがボチャボチャと音を立てて湖へと飲みこまれていった。

「さあ仕上げだ! 給料は微々たる金額上がってるんだけどそれ以上に税金が上がってるからどうしようもない、そのまえに給与明細によると毎月3000円も引かれているデータ費ってのが良く分からない衝撃波!」

ドゥーーーーーーーーン!

「鬼や、まさに鬼や。こんな悪辣な攻撃見たことない」

周囲は爆撃でもあったかのように煙が立ち上り、傷ついた人々がそこかしこにうずくまっていった。

「pato、早く逃げて、捕まったら最後よ!」

メルルが僕の鼻先で真剣な表情で叫ぶ。そこに大きな悲鳴が聞こえてきた。

「きゃああああ!」

「はなせ! 芳江をはなせ!」

「高志! 助けて! 助けて!」

「フハハハハハハ! この娘はもらっていくぞ」

「いやーーーー!」

先ほどのアベックの女性の方が鬼に捕まってた。

「くっ……!」

彼女を助けようと一歩前に身を乗り出す。

「ダメ! 助けに行ったらpatoまで捕まってしまう!」

「しかしいかないわけには……」

メルルを振り切って救出に向かおうとしたその時だった。

「まちな、WaTの実写ゲゲゲの鬼太郎を演じてないほうみたいな顔した若いの」

「高本さん……」

「ここじゃあ何も望んじゃいけねえ、望まない代わりに働かなくていい。彼女を助けたいという思いはお前の望みだ。働きたくないのなら望みは捨てる、それがここのルールだ」

高本はボロボロの帽子を被りなおしながら寂しそうに言った。

「ここでは何も望んじゃいけねえ……ああやって仕事の鬼に捕まりさえしなければ一生働かなくていいんだ、何が起きても望んじゃいけねえ……」

「そうよ、望んじゃいけないわ。望むことはエゴなの、エゴのぶつかり合いは不幸しかもたらさない」

「そんなエゴに疲れたから俺たちはこの世界にいるんだ、理解しろ、若いの」

「高本さん……メルル……」

ズシーン、ズシーン!

仕事の鬼は高笑いしながら来た方向を歩いて帰っていく。捕らわれた芳江の悲鳴はもうここまで聞こえない。湖畔で叫ぶ高志の声が聞こえるだけだった。

「さあ、また第二波の攻撃がないとも限らない。森の奥に逃げましょう」

「逃げるぞ! 若いの!」

メルルと高本さんが僕を急かす。けれども僕の足は一歩も動かなかった。

「……間違ってる」

「どうした、若いの!」

「急いで!」

「間違ってる!」

僕は声を大にして叫んだ。

「望むことはエゴなんかじゃない。僕らは望むからこそ生きていけるんだ。その望みはお金を稼ぎたいとかそういうのじゃない、平穏で楽しい毎日、そうやって生きていくことを望んでいる」

「若いの……」

「ここに来た時、奇妙な違和感に気付いたよ。こんなに綺麗な湖畔なのに動物の気配が全くしない。水の生き物のも森の生き物も皆無だ。動物は働きたくないなんて思わないからこの世界には来ない、みんなただ生きるために餌をとったり働くって分かってるから」

「pato……」

「そりゃあ確かに仕事が嫌で嫌で仕方ないこともある、行きたくないことだってある、でも、そうやって嫌がりつつも仕事をして平穏に生きていく事を望むから毎日が楽しんじゃないかな、よくわかんないけどきっとそうだよ」

高本さんもメルルも珍しい物でも見るかのような視線で僕を眺めていた。

「さあメルル、仕事の鬼の居場所を教えてくれ。俺は俺の望むままに彼女を助けるという仕事をすることを望む」

僕の決意に根負けしたのかメルルは仕方ないといった表情で話し始めた。

「仕事の鬼は湖の向こうの鉱山にいるわ。捕まった人たちもそこで強制的に働かされている鉄壁の城砦ともいえる鉱山よ」

「湖の向こうか……ならぐるっと周っていけば辿りつけるな」

「じょ、冗談じゃねえ! 俺はいかねえぞ、12年もここで平穏に暮らしてきたんだ。俺はここで同じように過すことを望む、絶対に行かないぞ!」

「高本さん、アナタはもうその時点で望んでしまっている。結局人は望まずには生きてはいけないんですよ」

高本さんは帽子を深くかぶりなおして言い放った。

「知った風な口聞きやがって! お前なんか鬼にでも何でも食われちまえ!」

捨てゼリフのように言い残してそそくさと森の奥へと消えていく高本さんに一礼し、僕は湖畔で呆然とする高志に声をかけた。

「これから君の彼女を救出に行く。鬼の根城に行くんだ。君も来るか?」

しかし、高志はプルプルと首を左右に振るだけだった。

「ダメか……じゃあ一人で行く。メルル、来たばっかりで申し訳ないけどお別れだ。ありがとう」

僕は湖畔に沿って走り始めた。目指すは鬼のいる鉄壁の鉱山、そこに捕らわれた人々を救うため僕は走る。

「アナタみたいな人はじめて」

30分ほど走っただろうか、急に右肩辺りから声が聞こえてきた。もちろんメルルだ。

「逃げなくていいのか? メルル」

「私はこの世界の案内人よ、アナタが迷わないように案内する義務がある。それが私の仕事だもん」

「そうか、メルルは仕事があるんだな」

走りながら会話を交わす。少し黙った後、メルルが切り出した。

「アナタにだけは教えておくわ、大切なことだから」

「大切なこと?」

「この世界は働かなくていい理想郷だって説明したと思うけど……」

「実際は違うんだろ」

「そう、実際は監獄なの。働きたくない、そんな無気力な人間を誘い込んで捕らえ、懲らしめるための監獄。ここでは何も望むことは許されずただ無為に時間が過ぎていくだけ。仕事の鬼の襲撃に怯えながらね。だから元の世界に帰る手段はないわ」

「それでも俺は望み続ける。この世界で仕事と呼べるものをして生き続けるさ」

「何十年ぶりかなあ、こんなにワクワクするのって……私、アナタに会えてよかった……」

「メルル……」

「着いたわ、あそこが仕事の鬼の鉱山よ」

そこには雷雲立ち込める禍々しき鉱山がそびえ立っていた。

「ようこそ! 我が根城へ! まさかこの世界の人間がここまで来るとは思わなかったぞ!」

「出たな仕事の鬼! 捕まえた人達を返せ!」

「クククク、返すわけにはいかんな! これは罰なのだよ。働かず生きていこうとする生命体としてあるまじき思想に対する罰なのだよ!」

高笑いをする仕事の鬼、懐に隠れていたメルルが飛び出して反論した。

「違うわ。人は誰も弱いの。色々な要因で働きたくない気持ちが強くなることがある。でも……それでも……人は望むのをやめない……嫌な気持ちを抱えつつ働く、それが人間の幸せなのよ!」

「メルル……」

「ええい黙れ! 妖精ごときが! 喰らえ! 職場の忘年会に行ったら上司の前の席になってしまい2時間丸まるお前は給料泥棒だと叱咤され料理も酒も手が出せないどころか全然忘年できなかった衝撃波!」

ドゥーーーン!

「きゃあ!」

「メルル!」

鬼の攻撃を受けて紙くずのように吹っ飛ぶメルル。僕は慌ててメルルに駆け寄った。両の手に収まる大きさのメルルはボロボロで、今にも消え入りそうなほど弱っているのが分かった。

「pato……もうダメみたい……最後に聞いて欲しいの……」

「もういい喋るな、メルル!」

「いいの聞いて。わたし、アナタに会えてよかった。こんな世界で案内人をしていた私だから、自分の望みのために働く人なんて見たことなかった。でも、今日アナタを見て始めて気づいたの。エゴなんかじゃない自分の望みのために働くアナタの姿を見て眩しいと思った」

「メルル……メルル……」

「気付いたの。仕事って英語でwork、これはね、望みを叶えるためにワクワクしてる人のことを指すんじゃないかって……私、patoのことす……」

「メルルーー!」

僕の手の中で輝きを失い、そのまま粉になってボロボロと崩れていくメルル。その質量は悲しくなるくらいに感じられなかった。

「おのれ仕事の鬼! 許さん!」

「ほう、人間ごときがこの私に勝てるとでも? この悪意の塊である私に! それもこの世界に捕らわれたほどの無気力人間がな!」

ゆっくりと両の手を広げる仕事の鬼。周囲を覆っていた雷雲が鬼の下へと集まった。

「喰らえ! 我が最強奥義! 朝職場に行ったら自分のデスクがなくなっていた爆裂翔!」

「ぐはあああああああああああああ!」

ダメだ、やはり勝てない。勝てっこない。人間は所詮無力なものだ。この悪意の塊である仕事の鬼に勝てるはずがない。僕は仕事に打ち勝つことはできないのか。

「さあ、とどめだ! あの世でメルルが待っておるぞ!」

いよいよダメかと覚悟を決めた時だった。

「待たせたな! 若いの!」

「高本さん!」

「芳江を返せ!」

「高志くん!」

「俺たちはもう、働くことを怖れない!」

「それにみんな!」

あれほど無気力だった人々が群集となって鬼の鉱山へと押し寄せた。あるものは鬼に向かって石を投げつけ、あるものは牢から捕らわれの人々を救出する、百姓一揆さながらの暴動、皆はそれぞれワクワクするような冒険心に満ちた表情をしていた。

「12年ぶりだ、こうやって何かをやってワクワクするってのはな! 大口の投資を引き受けた気分だぜ! 若いの!」

高本さんがハツラツとした表情で駆け寄ってくる。

「やっちまえ! 若いの!」

「はい! くらえ!仕事の鬼! 仕事をしていたら全然知らない人に感謝されたりして、明日も頑張ってみようかなって思うスーパーソニックジェットボーイ!!!!!」

「そんなまさか! 人間ごときにいいいいい!!! ぐはあああああ!!!」

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気がつくと、そこは街路樹に囲まれた道路の真ん中だった。木々に暮らす鳥達の鳴き声が聞こえた。僕は車の運転席に座りハンドルに突っ伏して気を失っていたようだった。まさかアレは夢だったのだろうか。仕事に行きたくないという現実逃避が産み出した幻影だったのだろうか。いや、そんなはずはない、あれは間違いなく現実だった。その証拠にこの両の手に残るメルルの感触。両手を眺めるとフワッと粉が舞い上がり、メルルのようにクルクルと僕の鼻先を舞うとフッと消えていった。

「メルル……」

あれが現実だったとしたならば、こっちの世界に帰ってこれたということなのだろうか。捕らわれ、一生抜け出ることのできない無気力の世界から帰ることができたのだろうか。そうなると他の人々はどうなったのだろうか。

ふと横を見ると、見覚えのあるアベックが通りを歩いていた。男はスーツを着用し、女は何か事務服のような制服を着ている。

「ほら高志、一戸建て買うんだからもっと働かないと!」

「う、うん、でもたまには休んでデートしようよ」

その奥には、アタッシュケースを持ったサラリーマンが忙しそうに携帯で話をしながら歩いている。

「はい、先ほど投資信託の件でお電話いただいた。はい、そうです。今から伺いますので」

僕はその光景を見ながら笑顔でハンドルを切りUターンした。さあ仕事に行こう。街路樹が僕らを激励するかのように優しく揺れ動いていた。

おわり

とまあ、新年から見紛うことなくトチ狂っているわけなんですが、いやー、みんなよくココまで読んだね、敵ながらアッパレだよ。何がメルルだ、死ね。

とにかくですね、正月休み明けの月曜日、仕事に行きたくないって気持ちが猛烈に昂ぶってしまいましてね、もう書かずにはいられない、書かなきゃいけないって訳の分からないことになっちゃいましてね、早く寝ればいいのに書いちゃったわけなんですよ。

もう面倒じゃないですか。ただでさえ月曜日って面倒でしょ、憂鬱でしょ。土曜日、日曜日とパラダイスのような休暇が無情に流れて仕事の始まる月曜日、いっそのこと月曜日なんてなくして日曜日の次は火曜日にすればいいと何度思ったことか。そして、そうなったら今度は火曜日が憂鬱になるんだぜ、と何度思い留まったことか。

とにかく、その憂鬱な月曜日と仕事始めが重なる魔のブラックマンデー1月7日、ダブルパンチ、家に帰って電気停められたー!って落胆してるところに水でも飲んで落ち着こうと蛇口をひねったら水道まで停められてたみたいな状態ですよ。よくわからんけど。とにかく、この日が本当に嫌でしてね、メルルとか書いちゃう暴挙に出ちゃったわけなんですよ。何がメルルだ、死ね。

でもまあ、上の文章のように仕事が嫌、年末に仕事で大失敗をやらかした失敗マンだっていうのも確かに大きな要因なんですけど、それ以上に仕事に行きたくない、いや、職場に行きたくない要因ってのがあってひどく憂鬱なんですよ。

ほら、年賀状ってあるじゃないですか。正月にドコドコ届くヤツ。あの年賀状ってヤツが嫌いでしてね、子供の頃はお年玉に並ぶ正月の一大スペクタクルとして楽しみにしていた節があるんですけど、どうも大人に、いや社会人になると面倒くさくてしょうがない悪習としか感じられないんですよね。

年賀状ってあまり良い思い出ないですし、昔、このサイトで閲覧者の方に年賀状出します!と宣言しててあまりの面倒くささに4通出して力尽きたとかそういう悲劇しか思い出せないんですよ。で、今の職場でも最初の方は数人の同僚から年賀状来てたんですけど丸っきり無視してたんですよね。

全然返事出さないのも社会人としてどうかと思うんだけど、仕事始めで会ったりしても何も言わないですからね。お礼も言わない。まるでそんな年賀状など存在しなかった、郵便局のバイトが配達するの面倒で側溝に速攻で捨てたのかもよって振る舞いだったんですよ。あ、今、微妙に上手いこと言えたね。

で、そうなってくると来なくなるじゃないですか、誰もそんなゴミに年賀状送らないじゃないですか。年賀ハガキって結構高いんですよ。それにそんなゴミに自分の出したハガキで「ふるさと小包」とか当てられたら嫌でしょ、だからもう職場メンツからは来なくなってましてね、去年なんかメガネ屋とピザ屋からしか来なかった。メガネ屋のなんて「その後メガネの調子はいかがでしょう?」とか書いてやがって、そんなもんとっくに壊れて捨てたつーの。

ともかく全然来なくて清々したわ!とか思いながら過してたんですけど、なんと今年、ネズミ年である今年2008年の年賀状、とんでもないことになってた。なんかですね、職場の同僚全員で示し合わせたのか知りませんけど、なんと、同僚全員から年賀状が着やがったんですよ。初めて知った、沢山年賀状が来ると輪ゴムで止めてあるんだな。

これは新手の嫌がらせの部類に入ると思うんですけど、たぶんアイツ返事出さないから皆で出して嫌がらせしようぜ的な謀略があったんだと思います。そうじゃないなら、実は僕は肛門ガンか何かで先が長くなくて、それを知らないのは僕だけで職場の皆は知っている、あいつには優しくしようぜってことになっちゃったりしてね、マミちゃんとか泣いちゃうの。

とにかく、全員で年賀状送ってくるという暴挙に新年からあったまきましてね、一人で憤慨していたわけなんですよ。望んでないのに勝手に送ってくんな。

色々と見てみますとね、やっぱ年賀状って頭に来るんですよ。なんか家族の写真とか載せやがりましてね、「今年もよろしくお願いします」とか書いてあるんですけど、僕はそんな家族までヨロシクされる筋合いはないですからね。おまけに下のほうに全員の名前が書いてあるの。祐樹(5歳)美紀(2歳)とかね、その横に手書きで「やっと一人で立てるようになりました」とか書いてあるとオメーは正月から何をトチ狂ってるんだって気分になるってなもんですよ。そんなお前の家庭のマル特情報なんか知りたくねーよ、頭の中に正月から餅を喉に詰まらせて旅立ったお爺ちゃんでも詰まってんじゃねえか。

「お正月いかがお過ごしですか?」とか書いてるのまでありましてね。そんなの知ってどうするんだよ、知ってどうするんだよ、本気で知りたいのかと、お前本気で正月のpato情報が知りたいのかと、あのな、お前の年賀状受け取った日、「全裸で日本舞踊」っていうエキサイティングなエロ動画をダウンロードしてウィルスに感染して大変なことになっとったわ。Windowsが立ち上がらなくなってな、え、満足か、コレで満足か。

まあ、こんなのはまだ良いほうで、酷いのになると干支の絵とか描いてあんの、今年ならネズミなんですけど、なんかファッショナブルにデザインしてね、正月からとんだアーティスト気取りですよ。中にはネズミってことでミッキーマウスとか書いてる土人がいるの。おいおい、正月から版権大丈夫かよってこっちが心配になる。

で、干支の絵までなら、ネズミの絵までなら正月ですし僕も耐え忍びますよ。やっぱ正月ってウカレポンチになりますからね、悪乗りして年賀状書いちゃう暴挙も許す、ネズミの絵も描いて良い、でもねその横のメッセージに

「今年もよろしくおねがいしまちゅ~」

とか書いてあんの。ぐおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおお、むかつくうううううううううううううううううううう、正月からムカつくうううううう。もう発狂するかと思ったね。意味不明に革ベルト持って暴れるくらいムカついちゃってね、この差出人は僕が猟銃の許可とか持ってなかったのを感謝すべきだってもんですよ。

で、中には裏面だけじゃ飽き足らず表面、なんか差出人の住所とか書くところにまで「正月飲みすぎチューい!」とか書いてるエテ公までいる始末。もう日本の行く末が心配だよ。アメリカだったらこんなの撃ち殺されても文句言えないよ。

とにかくまあ、同僚全員に返事出さないのってマジヤバイじゃないですか、社会的体裁とかあるんですけど、それ以上に村八分とかにされたら繊細な僕は傷つくじゃないですか。で、なんとか返事を出そうと思ったんですけど、わざわざ年賀状買ってきて書くのって面倒じゃないですか、ウィルスに感染したパソコンも直さないといけないしそんな暇ないですよ。

でもね、今は文明の利器ってやつがあるじゃないですか。そ、このパソコンですよ。このパソコン使って年賀メールってヤツを送ってやればいい、これならば面倒でもないし年賀状を出したという既成事実だけが残る、もう最高だよな、インターネット、全然関係ないのにヤマダ電機に電話してパソコン直した甲斐があったよ。ダウンロードしたファイルの名前まで言わなくていいですって女の店員さんに言われた甲斐があったよ。

そんなこんなで、先ほどシコシコと年賀メールを送信、日付にして1月6日、仕事始めの一日前、どう好意的に解釈しても駆け込み年賀メールです。とにかくこれで一安心だぜー、こりゃ新年から大快挙だな、って思ったんですけど、なんか一通出し忘れていたんですよね。

それがアパートの集合郵便ポストじゃなくて、僕の部屋のポストにダイレクトで届いていた年賀状だったんですけど、同僚の野上君がくれた年賀状に返事を出すの忘れていたんですよね。

でまあ、見ると野上君の年賀状には「飛翔」とか安いシャブでもやってんじゃねえかってことがデカデカと書いてあったんですけど、こいつにも返事出さないといけなかったんですよね。

でまあ、メールソフトを立ち上げて野上君のアドレスは年賀状に書いてありましたからそれを入力して「今年もよろしくお願いします」みたいなみんなに送った無難なメッセージをコピペしてポンポンッと送ってやった訳ですよ。もう60人くらいにやった作業ですから手馴れたもんですよ。

そしたらアンタ、上の文面マルっすよ、マル。妖精に出会って仕事の鬼と戦うファンタジーマルっすよ。更新に使うからコピペしなきゃなって入れておいたのがそのままペタアアアって貼られてやがるんですよ。正月から頭おかしい。

前にもコピペミスで女子大生にとんでもないメール送ったことあるんですけど、これはその比じゃねーでゲスよ。落ち着いてもう一度最初から読んでごらんなさい、クソ長いけどこれが職場の同僚から突如送られてきたと思いを馳せて読んで御覧なさい。色々ととんでもないことになるよ。野上君だって「飛翔」なんて書いて年賀状送ったらとんでもない方向に飛翔しちゃったなーって思うはずですよ。

とにかく、そんな事情もあってか、初春から思いっきり仕事に行きたくないわけなんですが、とにかく、出勤して挨拶して野上君に「あけましておめでとう、メルル」とか言われたらまた働かなくて良い世界に逃避しようかと思います。

こんな僕ですが、2008年もNumeri共々なにとぞよろしくお願いしまちゅ~。

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