Mement Mori

Mement Mori

Date: 2003/09/10

まだまだ日中は暑いですが、夜ともなると涼しくなり、茂みの中では秋の虫が鳴いていたりします。空を見上げると月が綺麗で、季節の匂いはすっかり秋に移り変わっているのだと実感させてくれます。

街を歩く女性の装いは、解放的な夏の物から落ち着いた秋の物へ変化し、僕のことをたまらなく安心させてくれます。

たまに、少しばかり女性に相手にされない、いわゆる非モテといった分類にカテゴライズされるお兄さんから、「秋になると女性の露出が減って悲しい」といった意見を聞くことがあります。

夏は気温も高いですし、開放的な気分になりがち、女性もキャミソールやら半分下着みたいな破廉恥な服装をし、肌を露出させて街を闊歩します。非モテのお兄さんたちは、そういった女性の肌を見ると飛び跳ねんばかりに喜んだりするものです。

そして、季節が秋へと移っていくと共に、肌寒い気温と開放的気分の減少が相まり、女性は肌を露出した服装をしなくなります。落ち着いた、あまり肌を露出しない服装の女性が多くなる、それが秋の到来を告げているのです。

世の非モテお兄さんは、女性の肌の露出が減ると、まるで防御力が上がってしまったかのように錯覚し、嘆き悲しみ打ちひしがれます。秋は死の季節なんて揶揄されることもありますが、それは非モテお兄さんの嘆き悲しみからきている表現なのです。

しかし、僕はここで声を大にして言いたい。季節が秋に移ろい、女性の肌の露出が減ったからといって、なにも嘆き悲しむことではない。それは非モテの初期段階。真の非モテは、肌の露出が減ったことを、秋が到来したことをむしろ喜ぶのだと声高らかに宣言したい。

だいたい良く考えてもみてください、いくら女性が肌を露出しようが、どんなセクシャルな格好をしてようが、僕ら非モテには何ら関係ないのです。別にキャミソール着てるからといって、僕らに肌を触らせてくれるわけではないですし、もぎたて果実のように乳をユサユサしてても触らせてくれるわけではありません。そう、どんな女性が露出しようと、僕ら非モテには関係ない。全然関係ない。もっかい言う、全然関係ない。

これはもう、餌を前にしてお預け状態のベスと同じ。ショートケーキを前にして食ったら殺すと言われているのと同義だ。いくらなんでもそれはあんまり。そんな、見せつけるだけ見せつけて、アナタはダメよ、と言うのならむしろ見せないで欲しい。

だから、真の非モテは秋の到来を喜ぶ。女性が肌を顕にし、「あらら、そんなに触りたいのかしら?でもアナタはダメよ、ブサイクだもの」と、まるで僕らを小バカにするかのような仕打ちを受けずに済む。そう、真の非モテは秋の到来を悲しまない、むしろ開放されたと喜ぶのだ。

日々秋が深まりつつある昨今、やはり僕ら真の非モテは秋の到来を諸手を挙げて大喜びする。そして、夏の間に見せつけるだけ見せつけてきた女性に対して怒りを顕にするのだ。

そんなに見せつけるならちょっと触らせろよと、そんな露出するならねぶらせろと。しかし、そんなことは絶対に有り得ず、彼女らは僕ら非モテの横をただただ素通りするばかり。そして思う、見せるだけのキャミソールギャルは死ねと、七回死ねと。

とまあ、秋を感じつつキャミソールギャルに対して怒りをぶちまけてみたわけだが、いつも僕が怒った時に使う「七回死ね」、特に「死ね」の部分に関して最近では深く考えることがある。

もしかしたら、僕らは「死」というものをあまりにも軽く考えすぎているのではないだろうか。

テレビから流れる、4人死亡の交通事故ニュース。さらっと聞き流しているが、よくよく考えると4人も死ぬとは大変な騒ぎだ。それまで何年、何十年も生きて、一生懸命もがき苦しみ、試行錯誤しながら今の地位を築き、そしてそれなりの人間関係を築いてきた人間が死ぬ。そうやって積み上げた一つの人間というものが死ぬ。それは軽く考えて良いような問題ではない気がする。

ある過疎地区を襲う大地震、未曾有の大災害でありながら、過疎地ゆえか1人しか死亡者が出なかった。人々は口々に、あんな大地震で一人しか死ななかったなんて奇跡だ、と喜ぶ。都市部を襲った大震災なら1000人規模で死ぬところを、たった1人しか死ななかったと大騒ぎ。けれども、その1人の人間と周りの人間にとっては、その小さな死が何より重い。

結局、僕らは溢れ出る情報の洪水によって、死の意識を限りなく希釈されているに過ぎないのだ。

映画やドラマなどでは、主人公周りの人間はどんなに危ない目に遭ってもなかなか死なない。その反面、どうでもいいザコキャラクターは、あっけないほど簡単に殺される。ストーリーを装飾するためだけに殺される。

アニメなんかはもっと顕著で、脇役は虫けらのように殺される。そして、主人公周りの重要キャラは殺されても生き返る。何度でも生き返る。これはもう、死を希釈するエッセンスと言う他ない。

そして、テレビニュースからは殺しや自殺、事故、事件、ありとあらゆる死の報道が流され、ますます死を希釈する。そうして僕らは、死亡という文字を見ても何も感じなくなってします。その二文字の漢字の向こうに存在する、1人の人間の存在を想像できなくなっているのだ。

そう考えると、昨今の凶悪事件の増加や少年事件の増加、自殺の増加などなど、あまりにも軽々しく扱われる「死」というものが、ひどく納得できるものになってくる。

きっと僕らは、身近に「死」が起こらない限り、バーチャルの世界や無関係な世界で起こってるとしか思えないのではないだろうか。僕らは皆同じベクトルで生から死に向かって生きているというのに、死というものを実感できないんじゃないだろうか。

先日、我が職場の屋上から飛び降り自殺した男がいた。あまりに生々しい現場や、屋上に置かれた靴、そして飛び降りる際の景気付けに飲んだのだろうか、飲みかけのチューハイレモン味の缶が転がっているのを見て、あまりに現実的な「死」に心底震えた。

結局、あまりに整理然と、ネガティブなものをひた隠しにした現代の日本においては、死という物を現実として認識しにくいということではないだろうか。そして、インターネットやテレビから流れる情報の洪水が、言い換えると「死」の洪水が、さらに認識を希釈にする。

だから僕のようなアホが平気で軽々しく「七回死ね」だとか「殺す」だとか言えてしまうのではないだろうか。その「死」の中にある重みなどまったく介さず、ただただ洪水のように言えてしまうのではないだろうか。

奇しくも、明日は9月11日。海の向こうで沢山の人が死んだあの日から二年が経つ。別にあれが劇的なものだったから特別の死とは言えないだろう。どの死だって当人や関係者にとっては等価に重いはず。

毎日数ある死、そして等価に重いはずの死、それら全てに思いを馳せるのは大変だし、それをする義務も僕にはない。けれども、せめて死を軽めないよう、希釈してしまわないよう、軽々しく「七回死ね」だとか「殺す」だとか言うのは止めよう。

今後僕は、死を希釈しない。余程の事がない限り「七回死ね」なんてセリフは使わない。そう、余程の事がない限り。それが同等に死のベクトルを持つ僕らに唯一できることではないだろうか。

などと考えていたら、我が職場のマッスル事務員B子さんが、秋物のブラウスだかブラウザだかを通販で買ったらしく、いたく興奮状態ではしゃいでいた。どうやら彼女も、秋の装いとなり露出度が減ったようだ。別にどうでもいいけど。

アゴが割れた筋肉女が、「この色いいでしょ」なんて小娘のようにキャピキャピする光景は不快。不快以外の何者でもない。誰か麻酔銃持って来い。

さらに調子に乗ったB子は、何をトチ狂ったのか知らないけど、ウケを狙ってか、本気で似ていると勘違いしているのか知らないけど、広末涼子のモノマネを始める始末。

「YahooBBでヤンス」

そう言って袋からチョコンと出てくる仕草をするのだ。職場の同僚、みんな石みたいに固まってた。

よし、あえて言おう。言わせてもらおう。

B子は七回死ね、と。

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